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武田晴信の諏訪侵攻





信玄が甲斐国主として独立してから1年後、実質上の初陣である諏訪侵攻作戦が行われた。
ここでは戦場となった現在の茅野市内の場所を紹介したいと思います。

諏訪侵攻に際して、信玄は父信虎の代に諏訪氏と神前誓盟による和睦を結んでいた事と諏訪頼重とは義兄弟だった事があり、大義名分が無かった。
そこで、諏訪惣領家⇔高遠頼継、諏訪大社上社内での神長官守矢頼真⇔禰宜矢島満清という対立関係、そして諏訪氏を含めた上社勢に対する下社金刺氏の不満を利用し、それに介入する形をとった。

●天文11年(1542)6月24日、武田晴信(信玄)は諏訪攻略への号令を発した。
対する諏訪頼重は同日夜にはその情報をつかんだが、まさか義兄である晴信が攻めてくるとは思えず、疑心暗鬼のままその後3日間をなすすべもなく過ごす・・・

●同年7月1日夜、武田勢は長峰、田沢に陣。頼重は6月28日には兵を集め始め、矢崎原、犬射馬場まで出陣するが、武田勢の優勢を見て上原城下の十日町へ退却する。

【下】木落しから上原城方面の眺め
写真は宮川小学校前の御柱木落坂付近からのもの。この付近は上川の段丘上に位置している。上川を挟んで対岸が犬射原、その先に上原城が見え、諏訪勢の動きが見通せる位置である。
城下町は写真でいうと上原城左下に広がっていた。


【左】犬射原神社  茅野駅東口の正面にあり、この付近が犬射原と呼ばれていた。
諏訪大社上社の末社で歴史は古く、矢ヶ崎祭(どぶろく祭)の時には犬追物の規式が行われていた。
当時の境内はかなり広く、一面原野だったが、天正10年(1582)の天正壬午の乱(織田氏滅亡後の北条氏と徳川氏の甲斐、信濃争奪戦)以後次第にすたれ、現在は街中にわずかな一画を残すのみとなった。


●翌日7月2日、晴信と密約を交わしていた高遠頼継の軍勢が杖突峠を越えて諏訪へ侵入し、安国寺門前に放火。
諏訪頼重はこれで武田軍と高遠軍との挟み撃ちの体勢になってしまった為、同日夜に 桑原城へ移る。・・・上原城落城
●7月4日、武田軍は桑原城を包囲。頼重に和議を申し入れる。
●7月5日、頼重は和議を受け入れ、甲府へ護送される。・・・同月21日に切腹。

【左】桑原城  上原城の北方約2キロに位置する。武田勢が圧倒的優勢の中で総攻撃をしなかったのは、晴信の妹で頼重の夫人禰々とその嫡子虎王を救出する為と考えられている。
・・・・・諏訪頼重が和議を受け入れたことによって、諏訪は宮川を境に西側を高遠頼継、東側を武田領とすることになった。
しかし、高遠頼継は諏訪惣領となることができなかったのを不満に思い、諏訪上社禰宜矢島満清、伊那の藤沢頼親等と謀議する・・・・・


●同年9月10日、高遠軍、上原城を急襲し、諏訪上、下社を占領。
●翌日11日、諏訪郡代板垣信方、諏訪に出動。
●19日、晴信は頼重嫡男虎王をたてて出陣。
●25日、安国寺の合戦。高遠軍は壊滅的打撃を受け、 高遠城へ敗走。

【左】安国寺周辺  高遠軍が上原城を急襲した翌日には板垣信方が出陣しており、高遠軍の行動が予測されていたようである。
また、虎王を全面にたてたことで、諏訪惣領としての正統はこちらにあることをアピールし、諏訪の有力者は武田方に付いた。
信玄はこれにより諏訪を掌握し、これ以降約20年にわたる信濃攻略への拠点となった。
この戦いにおいて、事前の諏訪氏抵抗勢力との根回し、桑原城における和議への持ち込み、虎王をたてての対高遠軍との戦いなど、この時既に抜群の戦略を立てていることがわかる、注目すべき事件だと思う。



諏訪法性兜(下諏訪町博物館蔵)


諏訪法性旗






<撮影> 伊藤清隆
<参考文献> 磯貝正義『定本武田信玄』新人物往来社 1987年
茅野市編『茅野市史』中巻 中世・近世 1987年
細川隼人著『武田信玄と諏訪』諏訪史談会 1974年
井上靖 風林火山の中にある宮川部落は この現在地です




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